動画4・1ミリシーベルトでも危険

『大人たちのつくった世界』Vol 4.医者がわからない「ぶらぶら病」

【動画採録
あの、今、言ってるのは、「当面は心配ない」と言ってますね。だけど、何十年先のことは分かりませんよ、と、本当は言わなきゃいけないんだけど。
1ミリシーベルトなんてのは、発電所の連中に言わせたら舐めたっていいんだ、というような感覚ですよね。ぼくらに言わせると、1ミリシーベルトというのが幸・不幸の分かれ目となる。
   タイトル「大人たちの作った世界」
・ぶらぶら病
ぶらぶら病という病気なんだ。これは、医者がつけた名前じゃなしに、患者の家族がつけた。見たところなんでもない。「父ちゃん、畑行って働いてよ」。「じゃあ子供連れて畑行くか」って行って、これ(鍬で耕す)やったらね、30分と持たないのね。「俺ぁもうとってもかったるくて起きてられない。先に帰るからな」って言って、ウチに帰っちゃう。で、帰ると、座敷でゴロッて横になって寢ちゃってるんだね。毎日、そういうことが続くから、家族や、田舎の本家の旦那とかが、「あいつは広島に行って怠け者になって帰ったんだ」と。医者に見せろって、医者に見せても、検査なんぼやっても、病気らしい兆候がなんもないだね。本人がかったるくて動けないっていうだけなんだ。だから、いつの間にかナマケ病=ぶらぶら病で。ナマケ病っていうと具合が悪いからぶらぶらしてるからぶらぶら病。これは、広島・長崎を中心にたちまち広がって。ぼくのところにも聴こえて来るんですね。患者が来ると、やっぱりそうなんだ。

ぼくなんか、一番ビックリしたのは、ダルいっていうのは、自分も経験があるから、その程度のダルさっていうのは分かるよね。ところが、初めて来た患者が、受付では、被爆者って言わないんだ。被爆者、差別されてますから、黙ってて、ぼくの前に来るとだね、私に、「広島から来た肥田先生ですか?」って訊くんですね。「そうだ」って、言うと、安心してね。「私も広島から来た被爆者です」って、初めて言うんですよ。「どうして来たの?」っていうと、「かったるくて動けないんです」って。で、まあ、どんな風に被爆したとか、どこで被爆したとか話しを訊いてるうちに、この男がね、「先生ごめんなさい」って言って、向こう側で、私の机の上でこういう格好(肘をつく)するんです。失礼ですよね、普通は。「えー?」と思ってたら、そのうち、床へね、椅子から降りて、あぐらかくんだ、下へ。「先生ごめんなさい。椅子に座ってられません」。そのうちね、床へね、横になってこうなっちゃう(肘をついて)。「こういう形でしか、私は起きてられないんです」

■そんなにダルいの......と
「そんなにダルいの?」と。「そうなんです」。それで初めてぼくはね、ぶらぶら病の患者のダルさのね程度っていうのが分かったわけ。初めてこれはただごとじゃないって、思いました。

で。実はまあ広島でね。広島の街の中では、家も何もないし、何もできないから、で、戸坂村(の仮設病院)は、閉鎖になったんです。村の人に迷惑で、学校も始まるしね、それがちょうど12月の半ばだった。それで村の人は、「悪いけど、病院の先生は患者さん連れて、どっか行って下さい」って言うわけだ。どっか行くって言ったって、広島は焼け野原だ、何もないんだ。結局はマッカーサー司令部に連絡をして、そして被爆者と職員がこんなに沢山、行くところがなくて、困ってる。どこでもいいからこれだけの人間が入れて病院の仕事ができるところを1つ配給してくれと。

■国立病院ができたってんでみんな来るわけだ
で、初めて山口県の柳井という市の郊外にある旧い軍隊をもらって、私たちは100人連れてったんだ。ところが、山口県に逃げていた被爆者が何万といるわけだ。それがお医者さんがなくて、(病院が)壊れてたのが、国立病院が出来たって言うんで、みんな来るわけだ。たちまち満員になっちゃうんだよね。たった医者は6人か7人なのに、三千人から四千人。旧い軍隊の跡が、全部(いっぱい)。まだここは出来てませんって言ったって、勝手に布団持ってきて寝ころがっちゃう。暖房がないからね、そこら辺の農家から七輪をもらって来て、そこら辺の古材もらって来ちゃあ、病室の中で焚き火してるんだ。ぼうぼう火の出るね。

そんなところでぼくは仕事してたら、ぶらぶら病の患者が入院して来て、そのまま寝た切りになっちゃうわけね。そうすると、朝から晩まで看護婦が何べんもいかなきゃなんないわけ、そこへ。人手は取られるし、治療法は分らないし。で、そのうち翌日看護婦が行って見りゃ「あ、死んでました!」ってなる。そういうのを何例も見てね一体、なんの病気なんだと、30年間、私はずっと頭の中に持ってた。

東京に出て来てから、東大の先生とか、大学の教授に電話かけたり、患者送ったり色々して、教えて欲しいって言っても、誰もまともな返事をくれたのは、1人もいない。本当なら、「こういう病気は私たちは見たことがない、申し訳ないけれどこういう病気は知らない」って言うのが一番正直なんですね。そう書いて欲しかったの。ところがね、自分の経験では、これは病気ではないというのを書いてくる。こんな乱暴な話がありますか! 自分の知らない病気はね、この世の中には1つもないんだと。あとは全部俺が知ってると。こういうのが大学教授なんだ。もう腹が立ってね。テメエは人間なのか、と思いましたよ。実際ね、苦しい人間を、紹介状をつけて、当時のことだから、お金がかかるでしょ。タクシーなんかないころですよ。ムリムリね、大八車に乗せたりなんかして、家族は、病院まで連れてくわけじゃない? それで何時間も待ってね、やっとこさ診てもらったら、「病気じゃありません」なんて、飛んでもない話だ。だからもう私は日本の偉い先生とかぜんっぜん信用しないです。そういう人間が何人もいるわけだから。

ぼくは、そういう先生にもらった、「病気ではありません」って診断書、取ってありますよ。生きてたら持って行ってね、「おまえ、このとき、こんなこと言ってたんだぞ」って言ってやりたい、ホント。まあ生きてる人は一人もいませんよ。いま生きてたら120歳か130歳くらいだから、いませんよ。

アメリカ行って
まあそういうわけでアメリカ行って、……なぜアメリカ行ったかって言うと、国連に訴えに行こうって言うことになって、昭和50年=1975年に、日本の国民代表団っていうのが、国連に、アメリカとソ連の、或いはよその国の、核実験を止めて欲しいという、……(核実験の)その度に被曝者ができるわけだから……それをね、署名を集めて、国民代表団で行ったんだ。世界中の専門家を集めてね、日本でシンポジウムを開いて、日本の医者にどうしたら良いか教えてくれと、いう要請書を持って、私が日本の医者の代表となって行ったわけだ。

話を訊いた最後に、ハマーショルドという総長が、「日本の代表団の要求は良く分かった」と。「すぐ国連の会議にかけて、要求が通るように、お世話しますよ。ただし、ドクター肥田が出された医療の問題でシンポジウムを開いてくれと言うのは、残念ながら私はこれを受け取るわけには行かないと」と断られた。 びっくりしてね「理由は?」って訊いたら……。私が行ったのは1975年、で、それの7年前、昭和43年にアメリカ政府と日本政府は合同で、広島・長崎の医学的……

(以下、採録続けます。お待ちください。)

■17カ国に伝えてきた